
今回は「神武天皇」です。
言わずと知れた、第一代の天皇であり、諸説また詳細はいろいろありますが、この神武天皇が大和地方を平定し、即位した日が「紀元節」であり、此処に年号「皇紀」の紀元があるとされています。
上の絵は「国史画帖 大和櫻」のものでありますが、神武天皇が戦っている最中に、一転俄にかき曇り、黒雲天を覆う時、何処からと無く飛び来たる「金色の鳶」が御弓に止まり燦々たる光を放ったので、悪者(?)共は目が眩んで降伏したと言う、有名な場面です。
旭日旗の元のようにも思えますね。

「濤川平成塾」(旧名:「新・松下村塾」)の塾長である濤川栄太氏の著書に『戦後教科書から消された人々』という本があります。

この中にも「神武天皇」は登場しています。
全ては書き切れませんが、「尋常小学國史」からの引用文が載っていたので紹介しておきます。
_/_/_/_/_/▼尋常小学國史より引用▼_/_/_/_/_/
天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍(ふないくさ)をひきゐて、日向から大和へお向ひになつた。さうして途中所々にお立ち寄りになり、そのあたりを平げつつ長い間かかつて難波(なには)におつきになつた。
天皇は、河内から大和にお進みになろうとした。わるものどものかしらに長髄彦(ながすねひこ)といふものがゐて、地勢を利用して御軍(みいくさ)をふせぐので、これを打ち破つて大和へおはいりになることは、むづかしかつた。そこで天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになるなることになった。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かつたので、ひととほりのお苦しみではなかつた。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、たうたう大和におはいりになつた。
天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになつた。しかし、長髄彦の手下のものどもが、いつしやうけんめいに戦ふので、御軍もたやすく勝つことが出来なかつた。時に、空がにはかにかきくもり、雹が降出した。するとどこからともなく金色の鵄(とび)が飛んで来て、天皇のお持ちになってゐる御弓のさきにとまつて、きらきらと強くかがやいた。そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦ふことが出来なくて、まけてしまつた。長髄彦も、まもなく殺された。
やがて、天皇は、宮を畝傍山の南西にあたる橿原にお建てになり、初めてご即位の礼をお挙げになつた。この年をわが国の紀元元年としてゐる。さうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞつて、この日に紀元節のお祝をするのである。_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/