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リストマーク 神功皇后三韓を征し給ふ 

2008年06月16日 ()
 日本武尊の熊襲御征伐ご、100年の時を経過した仲哀天皇の御代に,再び熊襲が暴れだした。
 仲哀天皇は、これを征伐せんと神功皇后を伴われに向かわれたが、仲哀天皇9年(200年)途中橿日宮(かしひのみや、記は訶志比宮)で急逝された。
 神功皇后は、御妊娠の身ながら、仲哀天皇のご意志を継ぎ、軍艦を従え熊襲の黒幕と思われた新羅に向かわれ、これを平定した。
 さらに、高麗、百済もこれに下り、遂に三韓を平定された。

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 我が福岡市に「香椎宮」という宮がある。
 四柱の御神体である仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神を御祭神として、現在は仲哀・神功の二座をまつる宮である。

 仲哀天皇が急逝された折、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工された。
 神功皇后がしたため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。
 「香椎宮」は、「橿日宮」敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来するという。

 kasiigu013.jpg 
 香椎宮 ホームページ http://www2.odn.ne.jp/kasii-shrine/

 香椎宮 ウイキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%A4%8E%E5%AE%AE

 平成廿年 私が初詣に参った時の写真↓  雪だった・・・・・
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[2008.06.16(Mon) 14:02] 神話・人物Trackback(0) | Comments(1) 見る▼
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リストマーク 日本武尊 

2008年05月12日 ()
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 猿之助の新作歌舞伎「ヤマトタケル」は日本古代の日本武尊伝説に題材を取っている事はご存知ですね。
 日本で最初に「女装」をした「男」かも知れません。
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 日本武尊伝説は上の様に「国史画帖 大和櫻」に載っていますが、『尋常小学国史』でもきちんと描かれています。

_/_/_/_/_/▼尋常小学国史より引用▼_/_/_/_/_/

 第十二代景行天皇の御代になつて、九州の南の方に住んでゐる熊襲(くまそ)がそむいたので、天皇は御子の小碓尊(をうすのみこと)にこれをお討たせになつた。尊は、御生まれつきくわつぱつで、その上御カもたいそう強い御方であつたから、この頃まだ十大の少年でいらつしやつたが、おほせを受けると、すぐ九州へお出かけになつた。熊襲のかしらの川上(かはかみ)のたけるは、かうしたことがあらうとは夢にも知らず、大勢のものといつしよに酒を飲んで楽しんでゐた。専は、御髪をとき、少女の御すがたになつて、たけるに近づき、剣をぬいてその胸をお刺しとほしになつた。不意をうたれたたけるは、たいへん驚いて、「何とお強いことでせう。あなたは実に日本一の強い御方です。これからは日本武(やまとたける)と御名のりなされよ。」と申しあげて、息が絶えた。
尊は、そこで御名をお改めになり、めでた大和にお帰りになつた。


_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

 「神武天皇」と同じく濤川栄太氏の著書『戦後教科書から消された人々』という本には、次のように記されています。
なお、『古事記』などではもうすこし生々しい皇室の事情が描かれている。日本武尊、つまり小碓尊には兄がいて、大碓尊といった。
この大碓尊は、天皇の後宮に入れるために連れてきた女性を自分のものとしたことがある。
そこで景行天皇が小碓尊を遣わしたところ、彼は兄を連れてくるのではなく、手足を引きちぎって投げ捨てたのだった。これを聞いてこわくなった天皇は、小碓を熊襲鎮圧に派遣したのである。こんな乱暴な皇子を身辺に置いておけば自分の王位が危なくなるだろう。
もし小碓が熊襲征討に成功すればそれでよし、もし失敗しても合法的抹殺ができるというわけである。
 ところが、小碓尊は大きな手柄を立ててしまった。「川上のたける」とここで書かれている人物は、一般には熊襲建(くまそたける)と呼ばれることが多い。タケルとは勇猛な人物の称である。小碓はこの熊襲建だけではなく、出雲建をも倒してきたのだった。
 
 そこで、景行天皇は、小碓尊改め日本武尊を、今度は東国に派遣する
。」

 ここで、再び、
_/_/_/_/_/▼尋常小学国史より引用▼_/_/_/_/_/ 

 その後、東の国の蝦夷(えぞ)が背いたので、天皇はまた尊にこれをお討たせになることになつた。尊は、いさみいさんで都をお立ちになり、まづ伊勢に行つて皇大神官に参詣し、天叢雲剣をいただいて、東の国へお向ひになつた。
 尊が験河の国におつきになつた時、その地のわるものどもは、鹿狩をするからと、尊をだまして、広い野原におさそひした。さうして、急に草をやきたてて、尊を害しようとはかつた。尊は、天叢書剣をぬいてあたりの草を薙はらひ、大いにおふせぎになつたので、わるものどもは、かへつて、自分のつけた火にやかれて、すつかりほろぼされてしまつた。これから、この卸剣を草薙剣と申しあげることとなつた。
 尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、蝦夷どもは、御勢に恐れて、弓矢をすてて降参した。かやうにして、尊は国々をお平げになつたが、都へお帰りになる途中、御病気のため、たうたうおなくなりになつた。
 尊はたふとい御身でいらつしやるのに、つねづね兵士といつしよに難儀をおしのびになる、少年の御時から、西に東にわるものどもをお討ちになつて、少しも御身をおやすめになるおひまがなかつた。さうして、天皇の御位にお即(つ)きにならぬうちに、おなくなりになつたのである。けれども、尊の御てがらにより、遠いところまで乎いで、世の中はたいそうおだやかになつた。

_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

「『古事記』などの記述では、日本式尊伝説はさらに哀愁を帯びたものとなっている。東国に派遣されるときには、軍勢もつけずに送り出されているため、伊勢神宮(戦前の教科書では「皇大神宮」)で叔母の倭比売(やまとひめ)命に、「天皇は私が早く死ぬようにと思っておられるのでしょうか」と訴え、泣き崩れている。
 走水渡(東京湾口)では、海が荒れたため、妃の弟橘比売が尊の身代わりとして入水して荒波を静めるという悲劇があった。
 そして、日本武尊が亡くなった伊吹山では、退治しようとした山の神が白イノシシに化身して現れるが、神ではなく単なる使いだと思って見逃してしまい、雹に打たれてふらふらになってしまう。そこから引き返して、ついに亡〈なってしまうのだ。亡くなる寸前に詠んだ歌が、これである。
  やまとは くにの真ほろば 畳なづく 青垣山こもれる やまとしうるはし
  (大和は国の真の中心地。重なっている青々とした山に囲まれた大和こそ麗しい)
  
 そして、白鳥になって天へ飛んでいってしまったのだった。」


 いかがですか?
 既にご存知の方も多い神話では有りますが、古事記の記述と会わせ見るとまた違って感じるのでは無いでしょうか?
 
 因みに、草薙劔の下りは「国史画帳 大和櫻」にも載っていますので、以下に紹介しておきます。

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[2008.05.12(Mon) 18:47] 神話・人物Trackback(1) | Comments(1) 見る▼
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リストマーク 大和地方御平定の神武天皇 

2008年05月08日 ()
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 今回は「神武天皇」です。
 言わずと知れた、第一代の天皇であり、諸説また詳細はいろいろありますが、この神武天皇が大和地方を平定し、即位した日が「紀元節」であり、此処に年号「皇紀」の紀元があるとされています。
 上の絵は「国史画帖 大和櫻」のものでありますが、神武天皇が戦っている最中に、一転俄にかき曇り、黒雲天を覆う時、何処からと無く飛び来たる「金色の鳶」が御弓に止まり燦々たる光を放ったので、悪者(?)共は目が眩んで降伏したと言う、有名な場面です。
 旭日旗の元のようにも思えますね。
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 「濤川平成塾」(旧名:「新・松下村塾」)の塾長である濤川栄太氏の著書に『戦後教科書から消された人々』という本があります。

   sengokyoukasyokarakieta1.jpg

 この中にも「神武天皇」は登場しています。
 全ては書き切れませんが、「尋常小学國史」からの引用文が載っていたので紹介しておきます。

_/_/_/_/_/▼尋常小学國史より引用▼_/_/_/_/_/

 天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍(ふないくさ)をひきゐて、日向から大和へお向ひになつた。さうして途中所々にお立ち寄りになり、そのあたりを平げつつ長い間かかつて難波(なには)におつきになつた。
 天皇は、河内から大和にお進みになろうとした。わるものどものかしらに長髄彦(ながすねひこ)といふものがゐて、地勢を利用して御軍(みいくさ)をふせぐので、これを打ち破つて大和へおはいりになることは、むづかしかつた。そこで天皇は、道をかへて、紀伊からおはいりになるなることになった。そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かつたので、ひととほりのお苦しみではなかつた。しかし、天皇は、ますます勇気をふるひおこされ、八咫烏を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、たうたう大和におはいりになつた。
 天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになつた。しかし、長髄彦の手下のものどもが、いつしやうけんめいに戦ふので、御軍もたやすく勝つことが出来なかつた。時に、空がにはかにかきくもり、雹が降出した。するとどこからともなく金色の鵄(とび)が飛んで来て、天皇のお持ちになってゐる御弓のさきにとまつて、きらきらと強くかがやいた。そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦ふことが出来なくて、まけてしまつた。長髄彦も、まもなく殺された。
 やがて、天皇は、宮を畝傍山の南西にあたる橿原にお建てになり、初めてご即位の礼をお挙げになつた。この年をわが国の紀元元年としてゐる。さうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞつて、この日に紀元節のお祝をするのである。


_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/ 

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[2008.05.08(Thu) 17:30] 神話・人物Trackback(0) | Comments(1) 見る▼
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リストマーク 素戔嗚尊八岐の大蛇を退治給ふ 

2008年05月01日 ()
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 昭和の初期に発行された「絵本」と言っても「絵」だけでも美術的な価値がありそうな「國史画帖 大和櫻」という物があります。
 題名のとおり、國史の偉人、名場面等を絵と解説で綴った冊子です。
 その一頁目の題目が、表題の「素戔嗚尊八岐の大蛇を退治給ふ」であり、良く知られている「八岐の大蛇退治」の場面が描かれています。

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 解説部分には以下のように記されています。
 旧仮名遣いなので、書き下ろさず、画像で張っておきますので雰囲気を味わって下さい。(実は字もなかなか無くて面倒)
 
   01_susano_yamatanoorochitaiji_ex.jpg

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[2008.05.01(Thu) 20:28] 神話・人物Trackback(0) | Comments(1) 見る▼
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