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リストマーク 百二十五代の天皇の系統 その1 

2008年09月12日 ()
 ≪伝承上の天皇と大和朝廷の王たち≫
  
初代 : 神武 「じんむ」 天皇

【御名・異名】 神日本磐余彦尊
      「かむやまといわれひこのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明「紀元元年」〜不明 76年?)

【父】 彦波去瀲武鸕●草葺不合尊(彦火火出見尊「ひこほほでみのみこと」の子)
  「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」
  ※●は滋の「氵」無しの右側に「鳥」

【母】 玉依姫命(海神の娘)
  「たまよりひめのみこと」

【皇后】 媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主神「ことしろぬしかみ」の娘)
   「ひめたたらいすずひめのみこと」

【崩御の年齢】 137歳(古事記)、127歳(日本書記)
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第二代 : 綏靖 「すいぜい」 天皇

【御名・異名】 神渟名川耳尊
      「かんぬなかわみみのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 33年?)

【父】 神武天皇

【母】 媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主神「ことしろぬしかみ」の娘)
   「ひめたたらいすずひめのみこと」

【皇后】 五十鈴媛命(媛蹈鞴五十鈴媛命「ひめたたらいすずひめのみこと」の妹)
   「いすずひめのみこと」

【崩御の年齢】 45歳(古事記)、84歳(日本書記)

第三代 : 安寧 「あんねい」 天皇

【御名・異名】 磯城津彦玉手看尊
      「しきつひこたまてみのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 38年?)

【父】 綏靖天皇

【母】 五十鈴媛命(媛蹈鞴五十鈴媛命「ひめたたらいすずひめのみこと」の妹)
   「いすずひめのみこと」

【皇后】 渟名底仲媛命(鴨王「かものきみ」の娘)
   「ぬなそこなかつひめのみこと」

【崩御の年齢】 49歳(古事記)、57歳(日本書記)


第四代 : 懿徳 「いとく」 天皇

【御名・異名】 大日本彦耜友尊
      「おおやまとひこすきとものみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 34年?)

【父】 安寧天皇

【母】 渟名底仲媛命(鴨王「かものきみ」の娘)
  「ぬなそこなかつひめのみこと」

【皇后】 天豊津媛命(息石耳命の娘)
   「あまとよつひめのみこと」

【崩御の年齢】 45歳(古事記)、77歳(日本書記)

第五代 : 考昭 「こうしょう」 天皇

【御名・異名】 観松彦香殖稲尊
      「みまつひこかえしねのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 83年?)

【父】 懿徳天皇

【母】 天豊津媛命

【皇后】 世襲足媛命(瀛津世襲「おきつよそ」の妹)
   「よそたらしひめのみこと」

【崩御の年齢】 93歳(古事記)、113歳(日本書記)

第六代 : 考案 「こうあん」 天皇

【御名・異名】 日本足彦国押人尊
      「やまとたらしひこくにおしひとのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 102年?)

【父】 考昭天皇

【母】 世襲足媛命

【皇后】 押媛命(天足彦国押人命「あめたらしひこくにおしひとのみこと」の娘?)
   「おしひめのみこと」

【崩御の年齢】 123歳(古事記)、137歳(日本書記)

第七代 : 考霊 「こうれい」 天皇

【御名・異名】 大日本根子彦太瓊尊
      「おおやまとねこひこふとにのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 76年?)

【父】 考案天皇

【母】 押媛命

【皇后】 細媛命(磯城県主大目「しきのあがたぬしおおめ」の娘)
   「ほそひめのみこと」又は「くわしひめ」

【崩御の年齢】 116歳(古事記)、128歳(日本書記)

第八代 : 考元 「こうげん」 天皇

【御名・異名】 大日本根子彦国牽尊
      「おおやまとねこひこくにくるのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 57年?)

【父】 考霊天皇

【母】 細媛命

【皇后】 鬱色謎命(鬱色雄命「うつしおのみこと」の妹)
   「うつしこめのみこと」

【崩御の年齢】 57歳(古事記)、116歳(日本書記)

第九代 : 開化 「かいか」 天皇

【御名・異名】 稚日本根子彦大日日尊
      「わかやまとねこひこおおひひのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 60年?)

【父】 考元天皇

【母】 鬱色謎命

【皇后】 伊香色謎命(大綜麻杵「おおへそき」の娘)
   「いかがしこめのみこと」

【崩御の年齢】 63歳(古事記)、111歳(日本書記)

第十代 : 崇神 「すじん」 天皇

【御名・異名】 御間城入彦太五十瓊殖尊
      「みまきいりびといにえのみこと」

【生年・没年】 不明〜258?年または318年? (在位:不明〜258?年または318年? 68年?)

【父】 開化天皇

【母】 伊香色謎命

【皇后】 御間城姫命(大彦命の娘)
   「みまきひめのみこと」

【崩御の年齢】 168歳(古事記)、120歳(日本書記)

第十一代 : 垂仁 「すいにん」 天皇

【御名・異名】 活目入彦五十狭茅尊
      「いくめいりびこいさちのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 99年?)

【父】 崇神天皇

【母】 御間城姫命

【皇后】 狭穂姫命(彦坐王の妹)、日葉酢媛命(丹波道主命の娘)
   「さほびひめのみこと」、「ひばすひめのみこと」

【崩御の年齢】 153歳(古事記)、140歳(日本書記)

第十二代 : 景行 「けいこう」 天皇

【御名・異名】 大足彦忍代別尊
      「おおたらしひこおしろわけのみこと」

【生年・没年】 不明〜不明 (在位:不明〜不明 60年?)

【父】 垂仁天皇

【母】 日葉酢媛命

【皇后】 播磨稲日大郎姫命(若建吉備津日子「わかたけきびつひこ」の娘)、八坂入媛(八坂入彦皇子の娘)
   「はりまのいなびのおおいらつめのみこと」、「やさかいりひめ」

【崩御の年齢】 137歳(古事記)、106歳(日本書記)

第十三代 : 成務 「せいむ」 天皇

【御名・異名】 稚足彦尊
      「わかたらしひこのみこと」

【生年・没年】 不明〜295?年または355年? (在位:不明〜295?年または355年? 60年?)

【父】 景行天皇

【母】 八坂入媛

【皇后】 弟財郎女(建忍山垂根「たけおしやまたりねの娘)
   「おとたからいらつめ」

【崩御の年齢】 95歳(古事記)、117歳(日本書記)

第十四代 : 仲哀 「ちゅうあい」 天皇

【御名・異名】 足仲彦尊
      「たらしなかつひこのみこと」

【生年・没年】 不明〜362年? (在位:不明〜362年? 9年?)

【父】 日本武尊

【母】 両道入姫命(垂仁天皇の皇女)
   「ふたじのいりびめのみこと」

【皇后】 気長足姫尊(気長宿禰王「おきながすくねのおおきみ」の娘、 神功皇后「じんぐうこうごう」)
   「おきながたらしひめのみこと」

【崩御の年齢】 ?歳(古事記)、?歳(日本書記)

第十五代 : 応神 「おうじん」 天皇

【御名・異名】 誉田別尊
      「ほむたわけのみこと」

【生年・没年】 不明〜394? (在位:不明〜394? 41年?)

【父】 仲哀天皇

【母】 気長足姫尊

【皇后】 仲姫命(五百城入彦皇子「いおきいりびこのみこ」の孫)
   「なかつひめのみこと」

【崩御の年齢】 130歳(古事記)、110歳(日本書記)

第十六代 : 仁徳 「にんとく」 天皇

【御名・異名】 大鷦鷯尊
      「おおさぎきのみこと」

【生年・没年】 不明〜427年? (在位:不明〜427年? 87年?)

【父】 応神天皇

【母】 仲姫命

【皇后】 磐之媛命(葛城襲津彦「かずらきのそつひこ」の娘)、八田皇女(応神天皇の皇女)
   「いわのひめのみこと」、「やたのひめひこ」

【崩御の年齢】 83歳(古事記)、?歳(日本書記)

第十七代 : 履中 「りちゅう」 天皇

【御名・異名】 大兄去来穂別尊
      「おおえのいざほわけのみこと」

【生年・没年】 不明〜432年? (在位:不明〜432年? 6年?)

【父】 仁徳天皇

【母】 磐之媛命

【皇后】 草香幡梭皇女(応神天皇の皇女と仁徳天皇の皇女説あるも不明)
   「くさかのはたびのひめみこ」

【崩御の年齢】 ?歳(古事記)、?歳(日本書記)

第十八代 : 反正 「はんぜい」 天皇

【御名・異名】 多遅比端歯別尊
      「たじひのみつはわけのみこと」

【生年・没年】 不明〜437? (在位:不明〜437? 4年?)

【父】 仁徳天皇

【母】 磐之媛命

【皇夫人】 津野媛(木事命「こごとのみこと」の娘)
   「なかつひめのみこと」

【崩御の年齢】 ?歳(古事記)、?歳(日本書記)

第十九代 : 允恭 「いんぎょう」 天皇

【御名・異名】 雄朝津間稚子宿禰根尊
      「おあさずまわくごのすくねのみこと」

【生年・没年】 不明〜454年? (在位:不明〜454年? 42年?)

【父】 仁徳天皇

【母】 磐之媛命

【皇后】 忍坂大中姫命(稚渟毛二岐皇子「わかぬけふたまたのみこ」の娘)
   「おしさかのおおなかつひめのみこと」

【崩御の年齢】 ?歳(古事記)、?歳(日本書記)

第二十代 : 安康 「あんこう」 天皇

【御名・異名】 穴穂尊
      「あなほのみこと」

【生年・没年】 不明〜?年 (在位:不明〜?年 3年?)

【父】 允恭天皇

【母】 忍坂大中姫命

【皇后】 中蒂姫(履中天皇の皇女)
   「なかしのひめ」

【崩御の年齢】 ?歳(古事記)、?歳(日本書記)


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[2008.09.12(Fri) 13:00] 天皇系統 | Trackback(-) | Comment(-)
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by yi
日本を救う方法新憲法無効論公開講座1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6084112

日本を救う方法新憲法無効論公開講座2
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6084407

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リストマーク 百二十五代の天皇の系統 序文 

2008年09月03日 ()
 恥ずかしながら、私は神武天皇から今上天皇まで、百二十五台の歴代天皇を、全て、いや殆ど諳んじる事が出来ません。
 神武・綏靖・・・・明治・大正・昭和、その他では、神社の御祭神だとか、神話や逸話に登場する天皇等を何代か挙げる事が出来る程度です。
 そんな折、遊就館で「歴代天皇事典」と言う本を見つけたので購入しました。

 tennojiten.jpg
 
 今回、主にこの事典を元に、読者の方には釈迦に説法でありましょうが、私自身の為にも百二十五代の天皇を簡単に紹介しておく事にしました。
 多すぎるので、今回は系統図を紹介し、次回から「歴代天皇事典」の分章に従って以下の7回に分けて紹介します。
 
 (1)伝承上の天皇と大和朝廷の王たち
 (2)王統断絶危機から大化の改新へ
 (3)律令国家の完成から平安遷都へ
 (4)藤原摂関政治の始まりと終焉へ
 (5)院政の始まりから鎌倉幕府の終焉へ
 (6)建武新政から大政奉還へ
 (7)明治維新から現代へ
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 皇室系統図

 tennou_keitouzu01.jpg

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[2008.09.03(Wed) 13:53] 天皇系統 | Trackback(-) | Comment(-)
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リストマーク 天皇制の日本は、思想家ルソーの理想の国 

2008年06月21日 ()
 かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で、
 「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである」
 と言っております。
しかし、東洋にその理想の「君民共冶」の国がありました。
「日本」です。

 「反日ワクチン」さんの所で紹介されていました、モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」という本の中に、私が、日本の「天皇制」というものが、如何に、世界に比類無き素晴らしい物であるかを再認識した、大変印象に残った話があったので紹介しておきたいと思いました。

 「反日ワクチン」2006年12月11日 日本民族の持つ最大の財産は天皇制である

 「反日ワクチン」2006年12月12日 世界に類例のない君民共治
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_/_/_/_/_/▼あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」より引用▼_/_/_/_/_/

※天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった

 尊敬する日本の皆さん、私はユダヤ人の長老として、・・・・我々ユダヤ人が犯したところの大きな誤り、第二次大戦終結後の日本人の精神的空白につけ込んで我々が持ち込んだところの諸々の誤れる思想について、その過誤の原因および内容的非論理性、反真理性について詳しく分析し、それが如何に日本人にとって有害なものであるかということを実証してみたいと思う。

 これによって一日も早く、尊敬する日本人が戦前あった世界に燦たる民族的長所を復活させて頂きたいのである。何故ならば、それが即ち我々ユダヤ人の理想でもあるのだから。
 日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。
 かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことを言っている。

 「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである」

 ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。

 ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。

 日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主はみな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。
 しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。

 私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参じよ」と。
 ここで非常に重要なことをルソーは言っているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切のタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制というものの比類なき本質を知ったからである。

 日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは真に賢明なことであった。この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他にもあるユダヤ人のいった言葉に次のようなものがある。

 「わがユダヤの王は、目に見えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちてその権力を行使するのは人民の幸福のためだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない。
 かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのである。そのため王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに外ならない」

 断っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想なのである。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーの言った如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。
 私が日本の天皇制の本質を知ったときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである。
引用終わり。

 日本の国体に慣らされている日本人には、なかなかこのことは気が付き難いことでしょうが、天皇制を無用ものと言うような、いわゆる知識人とか文化人とは一体何を知っている者たちでしょうか。世界の常識に全く無知なこのような者たちを、知識人や文化人と呼ぶのはもう止めましょう。
 日本の国体を大切に思う一般国民と比べて、彼らは全く無知蒙昧なのですから。


 一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。・・・・
 天皇が開口一番、自分の事はどうなってもいいから国民を救ってほしいと切り出した時、マッカーサーは驚天せんばかりであった。この席にルソーが同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものはそれこそマルクスの言う支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘んじなければならない。

 西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産を持っている。戦後GHQが天皇の資産十六億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまりGHQは西洋の君主並に日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに国民の前に見せ付けたわけであろう。ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのかと内心驚いたということである。しかし西洋の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく、至極当然なことだったのである。

 かような西洋の君主は、いざ革命、戦争、政変等のあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産の保全を求めて亡命を計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天皇が訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のためどこか適当な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話であろう。

 しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入して自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入して国民の救済を求めたということである。
 マッカーサーたるもの、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。・・・・・

※なぜ欧州では君主を輸入したのか
 万世一系の天皇を頂く日本人は幸せである。この万世一系の天皇は、如何なる意味をもつとお考えであろうか。この点では、ユダヤ人が僭越ながら日本人に少々参考になる意見をお聴かせできるかも知れない。
 日本人からすると、万世一系の天皇といってもピンとこないかも知れない。他にどんな天皇があるのか、と反問されるであろう。だから日本人は幸せだと思うのである。

 何故か。ヨーロッパの王朝というものはみな混血王朝である。歴史上、しょっちゅう外国から国王や王女を輸入した。しかも王朝の権力が強くなればなるほど、外国からますます輸入するようになる。何故か。王朝の権力を弱める必要があるからである。国内から昇格させようとすると当然争いが起り、国内が乱れるのでまずい。その点、外国からの輸入君主は当たりさわりが少なくしかも飾りものなので、最も有効な方法ということになる。

 こんな話をすると、日本人は全くお話にならんと思われるかもしれない。まさにそうなのである。私が万世一系の天皇をもつ日本人は最高に幸せですといった意味が、これでお分かり頂けたことと思う。・・・・・

 ここでもう一度、われらの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。ルソーは「我もし随意に祖国を選べといわれれば君主と国民との間に利害関係の対立のない国を選ぶ。しかし現実にそのような国があろうはずもないから、止むを得ずその代替物として民主主義国を選ぶ」といっている。ここにすべてが盛られている。ヨーロッパの王朝では常に君主と国民の利害が対立している。

 然るに、日本の天皇制には決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の「民のかまどに立つ煙」の故事を引き合いに出すまでもなく、また前述の天皇とマッカーサーの会見時のもようを説明するまでもなく、利害関係の対立は全くないのである。これこそ、君民共治の完璧な見本である。

 このような天皇制では、常に天皇と国民の間には強固な理性的バランスがとれているのである。人間精神の最も高尚なものが両者を結んでいるのである。そこには物質的欲得など、みじんも入り込むすきはない。なんとすばらしいことであろうか。このような国で、なんの必要があって天皇を外国のものと取り替える必要があろうか。

 ユダヤ人はルソーの言を俟つまでもなく、長年このような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国を持たないわがユダヤ人は、王を頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を「携帯祖国」としてもち、これによって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国では、このような高尚な理想をもった国は永遠に現れないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ人は日本人には及ばないが、一般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていただければ、甚だ光栄である。


_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

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[2008.06.21(Sat) 12:29] 良い話 | Trackback(-) | Comment(-)
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相互協力 by 小楠
こちらには初めてです。
これからもお互いに協力して、真実を広めたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

>小楠さん by tono
コメントありがとうございます。

>こちらには初めてです。
・いらっしゃいませ。
 こちらは、更新が本当にゆっくりになるとは思いますが、頑張ります。

>これからもお互いに協力して、真実を広めたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。
・こちらこそよろしくお願いします。

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国内だけで by DUCE
日本の場合は、戦国時代でも敗れた群雄が国外逃亡するといった発想はありませんね。ヨーロッパの場合と比較した場合、地理的に孤立した状態にあったために、逃げるにしても、せいぜい日本列島内限定しかありえなかったのでしょう。

>DUCEさん by tono
コメントありがとうございます。

>日本の場合は、戦国時代でも敗れた群雄が国外逃亡するといった発想はありませんね。ヨーロッパの場合と比較した場合、地理的に孤立した状態にあったために、逃げるにしても、せいぜい日本列島内限定しかありえなかったのでしょう。
・逆に帝は一人ですので、所詮一国の中という意識もあったのでしょうかね?
 天下を取ると言っても、帝になるわけではなく、実権を掌握すると言うことですね。
 この構造は、やはり他に類を見ないと思います。
 
 

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リストマーク 神功皇后三韓を征し給ふ 

2008年06月16日 ()
 日本武尊の熊襲御征伐ご、100年の時を経過した仲哀天皇の御代に,再び熊襲が暴れだした。
 仲哀天皇は、これを征伐せんと神功皇后を伴われに向かわれたが、仲哀天皇9年(200年)途中橿日宮(かしひのみや、記は訶志比宮)で急逝された。
 神功皇后は、御妊娠の身ながら、仲哀天皇のご意志を継ぎ、軍艦を従え熊襲の黒幕と思われた新羅に向かわれ、これを平定した。
 さらに、高麗、百済もこれに下り、遂に三韓を平定された。

    05_jingukogo_sankanwoseisu.jpg
 

 
 
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 05_jingukogo_sankanwoseisu_ex.jpg

 我が福岡市に「香椎宮」という宮がある。
 四柱の御神体である仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神を御祭神として、現在は仲哀・神功の二座をまつる宮である。

 仲哀天皇が急逝された折、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工された。
 神功皇后がしたため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。
 「香椎宮」は、「橿日宮」敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来するという。

 kasiigu013.jpg 
 香椎宮 ホームページ http://www2.odn.ne.jp/kasii-shrine/

 香椎宮 ウイキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%A4%8E%E5%AE%AE

 平成廿年 私が初詣に参った時の写真↓  雪だった・・・・・
 kashiigu_1000w.jpg

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[2008.06.16(Mon) 14:02] 神話・人物 | Trackback(-) | Comment(-)
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リストマーク 日本武尊 

2008年05月12日 ()
 03_kosunomikoto_kumasowochusu.jpg

 猿之助の新作歌舞伎「ヤマトタケル」は日本古代の日本武尊伝説に題材を取っている事はご存知ですね。
 日本で最初に「女装」をした「男」かも知れません。
Open↓

 03_kosunomikoto_kumasowochusu_ex.jpg
 
 日本武尊伝説は上の様に「国史画帖 大和櫻」に載っていますが、『尋常小学国史』でもきちんと描かれています。

_/_/_/_/_/▼尋常小学国史より引用▼_/_/_/_/_/

 第十二代景行天皇の御代になつて、九州の南の方に住んでゐる熊襲(くまそ)がそむいたので、天皇は御子の小碓尊(をうすのみこと)にこれをお討たせになつた。尊は、御生まれつきくわつぱつで、その上御カもたいそう強い御方であつたから、この頃まだ十大の少年でいらつしやつたが、おほせを受けると、すぐ九州へお出かけになつた。熊襲のかしらの川上(かはかみ)のたけるは、かうしたことがあらうとは夢にも知らず、大勢のものといつしよに酒を飲んで楽しんでゐた。専は、御髪をとき、少女の御すがたになつて、たけるに近づき、剣をぬいてその胸をお刺しとほしになつた。不意をうたれたたけるは、たいへん驚いて、「何とお強いことでせう。あなたは実に日本一の強い御方です。これからは日本武(やまとたける)と御名のりなされよ。」と申しあげて、息が絶えた。
尊は、そこで御名をお改めになり、めでた大和にお帰りになつた。


_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

 「神武天皇」と同じく濤川栄太氏の著書『戦後教科書から消された人々』という本には、次のように記されています。
なお、『古事記』などではもうすこし生々しい皇室の事情が描かれている。日本武尊、つまり小碓尊には兄がいて、大碓尊といった。
この大碓尊は、天皇の後宮に入れるために連れてきた女性を自分のものとしたことがある。
そこで景行天皇が小碓尊を遣わしたところ、彼は兄を連れてくるのではなく、手足を引きちぎって投げ捨てたのだった。これを聞いてこわくなった天皇は、小碓を熊襲鎮圧に派遣したのである。こんな乱暴な皇子を身辺に置いておけば自分の王位が危なくなるだろう。
もし小碓が熊襲征討に成功すればそれでよし、もし失敗しても合法的抹殺ができるというわけである。
 ところが、小碓尊は大きな手柄を立ててしまった。「川上のたける」とここで書かれている人物は、一般には熊襲建(くまそたける)と呼ばれることが多い。タケルとは勇猛な人物の称である。小碓はこの熊襲建だけではなく、出雲建をも倒してきたのだった。
 
 そこで、景行天皇は、小碓尊改め日本武尊を、今度は東国に派遣する
。」

 ここで、再び、
_/_/_/_/_/▼尋常小学国史より引用▼_/_/_/_/_/ 

 その後、東の国の蝦夷(えぞ)が背いたので、天皇はまた尊にこれをお討たせになることになつた。尊は、いさみいさんで都をお立ちになり、まづ伊勢に行つて皇大神官に参詣し、天叢雲剣をいただいて、東の国へお向ひになつた。
 尊が験河の国におつきになつた時、その地のわるものどもは、鹿狩をするからと、尊をだまして、広い野原におさそひした。さうして、急に草をやきたてて、尊を害しようとはかつた。尊は、天叢書剣をぬいてあたりの草を薙はらひ、大いにおふせぎになつたので、わるものどもは、かへつて、自分のつけた火にやかれて、すつかりほろぼされてしまつた。これから、この卸剣を草薙剣と申しあげることとなつた。
 尊は、なほも軍を東にお進めになつたが、蝦夷どもは、御勢に恐れて、弓矢をすてて降参した。かやうにして、尊は国々をお平げになつたが、都へお帰りになる途中、御病気のため、たうたうおなくなりになつた。
 尊はたふとい御身でいらつしやるのに、つねづね兵士といつしよに難儀をおしのびになる、少年の御時から、西に東にわるものどもをお討ちになつて、少しも御身をおやすめになるおひまがなかつた。さうして、天皇の御位にお即(つ)きにならぬうちに、おなくなりになつたのである。けれども、尊の御てがらにより、遠いところまで乎いで、世の中はたいそうおだやかになつた。

_/_/_/_/_/▲_引用ここまで▲_/_/_/_/_/

「『古事記』などの記述では、日本式尊伝説はさらに哀愁を帯びたものとなっている。東国に派遣されるときには、軍勢もつけずに送り出されているため、伊勢神宮(戦前の教科書では「皇大神宮」)で叔母の倭比売(やまとひめ)命に、「天皇は私が早く死ぬようにと思っておられるのでしょうか」と訴え、泣き崩れている。
 走水渡(東京湾口)では、海が荒れたため、妃の弟橘比売が尊の身代わりとして入水して荒波を静めるという悲劇があった。
 そして、日本武尊が亡くなった伊吹山では、退治しようとした山の神が白イノシシに化身して現れるが、神ではなく単なる使いだと思って見逃してしまい、雹に打たれてふらふらになってしまう。そこから引き返して、ついに亡〈なってしまうのだ。亡くなる寸前に詠んだ歌が、これである。
  やまとは くにの真ほろば 畳なづく 青垣山こもれる やまとしうるはし
  (大和は国の真の中心地。重なっている青々とした山に囲まれた大和こそ麗しい)
  
 そして、白鳥になって天へ飛んでいってしまったのだった。」


 いかがですか?
 既にご存知の方も多い神話では有りますが、古事記の記述と会わせ見るとまた違って感じるのでは無いでしょうか?
 
 因みに、草薙劔の下りは「国史画帳 大和櫻」にも載っていますので、以下に紹介しておきます。

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[2008.05.12(Mon) 18:47] 神話・人物 | Trackback(-) | Comment(-)
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